かゆいますかいしょうせつもどき

「ゴホウビですか!?」
危うく手に持っていた楽譜を落としそうになって、慌てて握り締めると、紙の束はグシャッと音をたてて皺だらけになってしまった。
「ああ、この前上げた動画が1万回ったしな。発音も大分ましになってきたから、ここらで餌付けしとこうと思って」
モニタに向かった重信は、ヘッドフォンを外さぬままそう云った。
「え、えづけ…」
必死に楽譜を元の姿に戻しながらカイトがそのまま繰り返すと、重信は「冗談だ」と、小さく笑った。

この家に生まれてから、カイトは何一つ不自由なく暮らしている。
今更ゴホウビなんて必要ないくらいに、重信からはたくさんのものを貰っていた。だってまず、自分がこうして存在しているのも彼のおかげだ。
敢えて何かを望むとしたら、これからもずっと重信と一緒にいたい。彼が自分のためだけに作ってくれる歌を、歌い続けたい。

重信のヘッドフォンからは、昨夜完成したばかりの曲が薄く洩れていた。
普段は人間の女の子が歌う元気で可愛い曲を作っているマスター。
聞こえてくるのは、ジャジーなピアノの柔らかい旋律と、低く甘く響くコントラバス。バラードでしっとり歌い上げる曲だ。
今は電子音が紡いでいる低音をメインとしたメロディラインを、これから自分が生きた音に変えていく。
「(これは、わたしが歌う曲…)」
言葉に出来ない優越感が身体中を満たす。
他のボーカロイドでも、ましてや人間でもなく、わたしが歌う曲。

自分が重信にとって特別な存在だと、そう信じたくとも自信はない。
だから、歌で示していくしかなかった。誰にも譲らない、弟のレンにさえも、この特権を明け渡すなんて考えられない。

「おい」
黙り込んだカイトに、重信が椅子をくるりと回して身体ごと振り向いた。ヘッドフォンを片方だけ外して、座っている姿勢からカイトを見上げる。
彼の瞳をじっと見つめれば、濃い茶色に、自分の顔が情けない表情で映っていた。
「思いつかないのか?」
重信の口唇が奏でる音は、自分には出せない心地のよい低音だ。
少し擦れ気味のエッジが、耳にすべらかに流れ込む。
「あ、ええと…」
「まあ、考えとけ」
再びモニタに向かった背中に、勢い切って声をかけた。
「あ、あの、ますたー」

歯切れの悪い呼びかけに、重信は、あ゛? と再び片方だけヘッドフォンを外して、今度は首だけ振り返る。
別に何か思いついたわけではないけれど、漠然とした欲求は胸に渦巻いていた。

「ますたー、わたしは、あ、あ、あの」
「アイス?」
「で、ではなくて」
「別にハーゲンダッツっつっても怒らねえよ」
「で、で、ではなくて」
「あ゛あ゛?」

ハッキリ云えとばかりに眉間に皺を寄せて重信が顔を近づけたので、思わずドキリと胸が鳴った。
互いの息がかかる距離。この瞬間だけでもう、正直満足だった。けれど、近すぎる重信に照れくさく少し顎を引きながら、カイトは続けた。
「わ、わ、わたしは、その、ま、ま、ま、ますたーが、」
「ああ」
「ま、ま、ますたーが、こ、これ、これから、も」
「…んだよ、ったく! 思いつかねえなら、」
焦れったい、というように重信がカイトの左頬に触れた。ゴツゴツとした硬い指が、つ、と優しく撫ぜた次の瞬間、

「俺がもらっとくか」

そう云うか云わないか、重信の口唇が指の置かれた反対側の頬に触れる。
重信のかさかさと乾いた口唇とは裏腹に、ちゅ、と、湿った音がカイトの右耳を打つ。

「っう」

驚きで喉から声を絞り出したカイトに、重信が見上げたままの姿勢で、
「俺、調教乙、ってことで」
いたずらっこのような笑顔で云った。
「ま、ままま、ますたー!」
「よし、じゃそろそろ始めっかね」
歌う位置に立て、と、何事もなかったように手をひらひらさせる重信に、カイトは必死に食らいついた。
この際もう、後のことなんてどうでもいい。今、彼から欲しいものがある。
「ますたー!」
「ん?」
「お、思いつきました!」
珍しくどもらずに叫んだときには、手の中の楽譜は既にジャバラ状だった。
「い、い、い…」
「おう」
「い、いま、今の…」
「…焦って決めなくていいぞ」
怪訝な顔をする重信を振り切るように、

「今の、もういっかい、してください…」

消え入りそうな語尾。
重信がきょとんとした顔をして、そんなんでいいのか、とポソリと呟いた。
「はい」
今度はしっかりと返事をする。

「オーケー」
ヘッドフォンを首に下げた重信のその逞しい指が、もう一度カイトの左頬へ添えられる。
少し肩を強張らせて待つカイトに降ってきた口唇がさっきと違うのは、掠めるようだった彼の体温が、今度はココロの芯まで届くのに十分な長さだったことだ。

じわりと、瞳に水の幕が降りる。
知らぬ間に、口の両端は上がっていた。
湧き上がる熱が、自分がまるで人間になったようなそんな錯覚まで起こさせて、離れていく重信の顔を追いかけるようにフウと息を吐いた。
鎮まらない熱を、頭の中で言葉に変える。

わたしは、ますたーがこれからも、
「ん、これでいいのか?」
これからもわたしのために、
「はい、あ、アリガトウございます」
わたしだけのために、歌を作ってくれると、
「はー、あそ。そんじゃ始めっぞー」
いう、約束が欲しいんです。

「はい!」

わたしが歌う曲を、ますたーが作って、ますたーが作る曲を、わたしが歌う。
自分の根底に、彼との関係に滔々と流れるこの望みは、伝えようが伝えまいが生涯変わることはないだろう。
だから今は、彼の体温をもっと近くで感じてみたい。頬に触れた温もりを、もう少し長く。出来るならば何度でも、毎日毎晩、この先ずっと。

3カウントからイントロへ、左耳から全身へ、流れ出すスロウバラード。

歌い出すその瞬間、吸い込んだ空気は彼よりも頼りない自分の指先まで染み透っていく。
その行く末が彼とわたしを繋ぐ橋になるのだ。
儚くも強靭な、歌という「絆」に。